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日本刀の神髄名刀コレクション 日本アンティックギャラリー

日本刀の歴史

日本刀は、元来、「刀」もしくは「剣」という呼び方をされており、日本国内では「日本刀」と言う呼び方はされていません。「日本刀」という呼称は、元々、海外から見た場合に用いられていました。

慶長以前の日本刀を「古刀」と言い、慶長元年からのものを「新刀」と言います。その後、天明元年頃から、明治維新頃までのものを「新々刀」と呼ぶようになりました。

日本における刀の始まりは定かではありませんが、古墳時代には鉄製の刀剣が作られていました。一説によると、大和民族が鉄剣を使い始めたとも言われています。

平安期

現代の日本刀は刀身があざやかに反った形状ですが、平安時代中期以前は、直刀と呼ばれる真っ直ぐの刀身でした。湾曲した反りの刀身が世に出始めたのは、平安時代中期以降と言われています。平安中期はちょうど武士という新しい階層ができた時代であり、その新しい階層とともに直刀から湾刀に発展していったと思われます。

この期に直刀よりも湾刀のほうが、強い衝撃に耐えられるということが証明されました。また、この頃から刀工の技術の進歩もあり、各地で鍛冶が栄えはじめました。

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鎌倉初期

鎌倉初期は日本刀の黄金時代と言われています。1221年、承久の乱を起こしたことでも知られる後鳥羽上皇は名刀をこよなく愛し、全国から名工を集めました。名工たちに月番を定めて御番鍛治として鍛刀させ、上皇自らも鍛刀をされるようになりました。

承久の乱の敗北により、上皇は隠岐に流されますが、その後も御番鍛治を縮小されて鍛刀をされていたと言います。後鳥羽上皇が刀をこよなく愛していたことによって刀工たちの鍛刀技術も飛躍的に進歩しました。

このころの刀工の作風は鍛えが小板目肌で地沸は金の砂のように厚く美しいのが特徴です。鎌倉初期の日本刀の繁栄は後鳥羽上皇のこうした刀に対する好奇心からといっても過言ではないでしょう。

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鎌倉中期

鎌倉中期になると、武家社会が確立し、武士の全盛の影響を受けて鍛冶の世界も華やかな発展をしました。

この期の太刀は豪壮さを示したものが多く、刃紋は、備前、山城に最も顕著で華麗な丁子乱れが流行しました。また、短刀の製作はこの頃から増えてきました。

一文字派から長船派が主流になり、近忠の子である光忠を祖として、長光、影光、兼光と続いていきます。

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鎌倉末期

鎌倉末期になると、刀は豪壮さがさらに強調され、太刀は身幅が広く切先の伸びたものとなっていきました。

この時代の有名な刀工に五郎入道正宗がいます。正宗は相模鍛冶で有名な新藤五国光の弟子としても知られています。刀の世界では、山城(京都)、大和(奈良)、備前(岡山)、美濃(岐阜)、相模(神奈川)の5か国の刀剣に、特徴的な作風をそれぞれ「山城伝」「大和伝」「備前伝」「美濃伝」「相州伝」と分類し、これらを称して「五ヶ伝」と言いますが、正宗は、このうち「相州伝」の作風を完成させました

。相州伝の作風は硬軟の地鉄を組み合わせて、湾れ刃を基調とした大模様の刃紋による沸の作風の美しさを表現した鍛法です。この作風は全国に普及し、後に「正宗十哲」という呼称で10人の優秀な弟子が生まれました。

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南北朝期

この時代は商工業や貨幣が発達し、衣食住ともに、豊かな生活を送る人が増えてきました。

刀剣は元寇以降、豪壮頑健さが増してきました。鎌倉時代には小さかった、腰刀、打刀が大振りとなり、身幅の広い大太刀、相州伝の伝播影響といわれる沸出来の刃紋が流行しました。短刀も一尺を越える大振りのもので、平造りで身幅が広く、反りがつき、重ねが薄くなりました。

また、志津三郎兼氏などが出現して美濃鍛冶の基礎が築かれました。南北朝後期には前期に流行した大太刀とは逆に小振りの太刀が一部で流行しました。

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室町期

この時代は、農業の生産能力と商品経済の発達により、貨幣の流通がいっそう盛んになりました。

豊かになりつつある経済とは相反し、刀剣の世界では南北朝期の豪壮な大太刀はすたれ、鎌倉期の作に近い復古的な太刀が出回りました。

室町期の太刀は鎌倉時代のものに近いとはいえ、わずかではありますが、先反りがつくのが特色です。刃紋は一般に直刃においても刃中のどこかに尖り刃が交じり、切先の返りがまずくなる点がみられ、乱れ刃は丁子本位のものはなく互の目が交じっています。室町期の打刀は腰から直接的に一回の動作で抜けるように二尺一、二寸の短いものが多く、反りは先の方にも反りがつきました。短刀は平造り大振りでは寸法が伸びてはいますが、反りはなくなりました。

室町末期には鉄砲の伝来により、各地に鉄砲の需要が拡大し、多くの刀鍛冶職人は鉄砲鍛冶職人となりました。

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桃山期

この時代は、戦国時代の終焉を向かえ、織田信長により、楽市楽座の政策が行われました。

その後、信長は京都本能寺で明智光秀に殺害されます。山崎の戦いで明智光秀を倒した羽柴秀吉が頭角をあらわし、秀吉はその後、柴田勝家や北条氏直を伏して、天下統一を遂げました。秀吉は刀狩り令を発し、一向一揆の防止のために百姓の身分のものに武器の所有を禁じました。これにより打刀はしだいに陰をひそめ、新刀鍛冶が生産されるようになります。

村正の箱乱れ刃、祐定の蟹の爪、孫六の三本杉、兼房の兼房乱れなど、個性のある波紋が出てきました。刀身は身幅が広く、先幅も狭らず、切先が伸びて反りが浅くなり、地がねは流れごころとなり、波紋は湾れに互の目調が主流となりました。刀装は、豪華で、きらびやかなものが多くなり、金具鞘塗など、技法、色彩ともにあでやかになり、豪華絢爛な桃山時代を反映した作風になっています。

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江戸前期

この期は、徳川家康による江戸幕府が確立し、武士が経済的な主導権を握っていました。

それゆえ刀剣の需要も拡大し、刀鍛冶も全国から名工が江戸へ集まり、技を競い合います。大阪に井上真改、津田越前守助広、江戸に長曾祢虎徹が頭角をあらわし、新刀期の最も円熟した時期を迎えます。新刀らしい特色をあらわした刀となり、金象嵌截断銘のあるものが多くなります。

とくに最高の名工と言われる長曾祢虎徹入道の作は地がねのよさと独特の数珠刃の刃紋と共に、截断銘による切味のよさが人気となりました。江戸新刀はほとんどが虎徹に近い作風になりました。

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江戸中期

社会が平和になりつつあり、刀剣の世界は徐々に衰退していきましたが、鍔、小柄、笄、目貫などの刀剣の装飾部分は職人の高度な技により発展していきました。

これは、元禄文化の豪華な服装にあわせてもつ装剣が流行したことが一因とされています。装剣の流行は愛玩品としての趣向が強くなり、金銀をはじめ、多くの色を使い、高彫、薄肉彫、肉合彫などの技法を用いた精美で巧緻な作風と変化していきます。

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江戸幕末期〜明治初期

鎖国時代だったこの頃、アメリカ軍人であったペリーが浦賀にあらわれ政府と交渉します。日米和親条約を締結し、長く続いた鎖国政策が終わりました。この期は杉田玄白の解体新書をはじめとする多くの西洋の文化が伝えられ、日本は急速に近代化の時代を進み始めます。

鍛刀の世界は、水心子正秀などが、復古刀の鍛刀法を復元し、実用的な復古新刀が流行します。一方で藩の命で鉄砲鍛冶に転ずるものも多くなり、様式鉄砲の技術を学ぶものが増えました。近代化の風潮が高まるにつれ、刀鍛冶はしだいに衰退し、その後明治維新の散髪廃刀の許可、廃刀令などによって、刀はその実用性を失っていきます。

こうして、長く続いた刀剣の歴史は終焉を向かえました。

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